発達障害(ASD+ADHD)と、診断されている旦那ネスケの妻ネスケ子です。
ネスケの場合の『怒り』についての記事を以前書きました。
この中で、『認知の歪み』について少し書いてあるのです。
認知とは、『物事の捉え方』。
認知の歪みとは、『思考のくせ(考え方のくせ)』。
認知の歪みが全くない人はいないと思います。
認知というものは、人それぞれですし正解はないもの。
けれど、同じような出来事を体験しても、偏った認知があることによって辛いと落ち込むことはある。
心が辛くなってしまう。
偏った認知を持つ方と接している身近な人まで、辛くなることも多いと思います。
私は思うんですけど、100%正しい事なんてないじゃないですか?
曖昧な事や、あやふやにする事って、生きていく中で心に負担をかけない方法じゃないのか?って思うんです。
「こうでなくてはいけない」なんて事はない。
世の中完璧な物なんてないんですよ。
(あるのかもしれないけど)
認知の歪みとは
ざっくり言ってしまえば
認知=『物事の捉え方』に、歪みがあること。
「考え方のくせ」と言いますが、その考え方のくせも極端な思い込みや自分の考え方のくせ(言ってしまえば独特な)から、生じる問題が多いという事が認知のゆがみだということでしょうか?
認知の歪みは、同じ経験や出来事をした際に、歪んだ捉え方をすること。
同じ体験をした時でも、感じ方や考え方は、人により違います。
私はネガティブな方ですが、さらにネガティブなネスケが私と同じ体験をしても、違う感じ方、考え方をします。
私とネスケの捉え方の違いを、以前起こった出来事に例えてみます。
いくつかの梅干しが床に落ちてしまいました。
その時に床を拭きながら
『最近拭き掃除をしていなかったから、ちょうど綺麗になっていいや(笑)』と、赤い汁やシソがある所だけではなく、キッチンの床を拭いていた私。
落とした分の梅干しは残念だったけれど、床の拭き掃除をして満足でした。
その様子を見ていたネスケが
「俺だったらそんな風に思えない。」と、ボソッと言っていた。
そして、ネスケの場合は
床に落としてしまった時は、落としてしまった事に対してと、落としてしまった自分に対して
『なんだよっ!』など、ブツブツ文句を言いながら拭いています。
その後も、落とした事などを引きずり気分は良くない状態となります。

同じ体験をしても、私とネスケの事実として得られるものは、認知の仕方によって全く違うものになります。
ただ、この認知の違いによって伴う言動などを客観的に見て、『常識外れ』だったり『他人には理解しにくい』というものや、自己否定してしまうような考え方などがあります。
その認知の歪みから、自分自身が「不安」や「怒り」などのネガティブになる事が、認知の歪みらしいです。
そしてその認知の歪みは、本人だけでなく身近な人にも影響すると私は感じています。
ネガティブな感情になった時、本人はもちろん「生きづらさ」や「苦しい」という事になりますが。
そのネガティブな感情を持った人と、接する人もまた「生きづらさ(接しづらさ)」や「苦しい」という感情になると私は思います。
偏った捉え方をする人も辛いけれど、偏った捉え方をする人の身近な人も辛い。
認知の歪みというのは、1970年代にアメリカの精神科医アーロン・ベックが基本的な理論を提唱したらしいです。
その後、デビッド・バーンズが研究を引き継いだというもの。
前向きな思考を妨げる思考パターンとして、いくつかの思考パターンがあるようですが。
代表的なものとしては、10のパターンがあります。
認知の歪み 10の思考パターン
・全か無かの思考
(白黒思考)
・行き過ぎた一般化
(過剰な一般化)
・心のフィルター
・マイナス思考
・論理の飛躍
・拡大解釈・過少解釈
・感情の理由づけ
・~すべき思考
・レッテル貼り
・誤った自己責任化
(個人化)
すごい関係ないかもしれないのですが、認知の歪みを調べていて驚いたので書いてしまいます。
認知の歪みの基礎的概念を築いたアーロン・ベックは、うつ病の認知療法の創始者として知られる方との事ですが…。
何がびっくりしたって、今年(2021年7月)100歳の誕生日を迎えたそうです。
すごいな~。
はい、話は戻ります。
10パターンについて、少しだけ書いていきますが。
その前に、少し自動思考について書きます。
自動思考とは?
認知のゆがみが、あらゆる状況において「自動思考」として現れ、言動に大きな影響が出る。
自動思考とは、意識しなくても頭に浮かぶ思考。
物を見てパッと頭に浮かぶ事や、何かが起きた時にパッと頭に浮かぶ事が、自動思考。
自動思考の多くは、それまでの経験や環境の中で知らず知らずのうちに身に着けているもの。
このパッと浮かぶ思考のくせが、ものごとの捉え方に偏りが出たりして、認知に歪みを引き起こすらしいです。
(私なりの解釈)
●ネスケが私にLINEをした時に、既読にはなったのに返信がありません。
その時ネスケは
『ネスケ子、怒っているのかな。俺、何をしたんだろう。』
●私がネスケにLINEをした時に、既読にはなったのに返信がありません。
その時ネスケ子は
『ネスケ忙しいのかな?寝てるのかな?』
このLINEの返信が来ないという状況で、パッと頭に浮かぶのが自動思考。ネスケと私の捉え方が違うのは、思考のクセ。
という感じでしょうか?
全か無かの思考 (白黒思考)
”0か100か” ”白か黒か”
物事を『白か黒か』どちらかはっきりさせないといられないこと。
完璧主義とも言うみたいです。
『100%でなければ意味がない。』と、思ってしまう。(思い込んでいる。)
例えば、自分が一か所失敗しただけで(間違えただけで)
「これは、もうだめだ。完成しない。」
自分自身にだけではなく、他者の事に対しても思ってしまう。
例えば
「ネスケ子は、洗剤の詰め替えをする時に時々こぼすから、ネスケ子に詰め替えは出来ないんだ。
(雑な人だ)」(実話)
行き過ぎた一般化 (過剰な一般化)
1度や2度しか起こっていない事なのに、「いつもそうだ」、「絶対こうなる」などと、それがいつも起こっている事のように思ってしまう。(思い込んでいる。)
これはネスケに多く見られる事です。
本当に1回しか言っていないような事でも、「お前はいつもそうだ。いつもそう言う。」と言われるので、私は考え込むんです。
『うん…。ちょっと前に言ったかもしれないけど、あの時が初めてではないでしょうか?』と、思います。ネスケの言う『いつも』は、1度か2度しかなかった事が多いです。
他にも、1度何かを間違えると「俺はいつも間違える。俺はやらない方がいいんだ。」というのもそうかもしれません。同じ行動を(間違えを)しているわけではないのですが、何をしてもダメだ。という事になってしまうネスケです。
心のフィルター
物事のいい面を認識できず(シャットアウト)、悪い事ばかりを(悲観的に)見てしまう。
1日の間にも、良い出来事や、悪い出来事があるけれど、夜1日を振り返った時に「今日は嫌な事ばかりあった。」と、悪い出来事しか思い出さない感じ。
良い部分を見ずに悪い部分しか見る事ができないため、全部「悪い」と捉えてしまう。
全体の1つだけでも良くない部分を見てしまうと、全部が良くないものだと思ってしまう。
例えるなら、きれいな部屋に1個だけ落ちているゴミを見て、
「1つゴミが落ちている、部屋が汚い。やっぱり俺は掃除ができないんだ。」という感じ?
マイナス思考
これは、よく聞きますよね。
物事すべてを、マイナスの意味(悪い事)で受け取ってしまう。
褒められたとしても
「お世辞だ」とか「たまたま出来ただけだ。」などと、思ってしまう。
良い事なのに、自分で自分の事を認めてあげる事ができません。
私は、かなりマイナス思考です。
褒められても「お世辞を言ってくれて優しい。」と思ってしまいます。
論理の飛躍 (結論の飛躍)
根拠もなく、相手の気持ちや、自分の将来などを決めつけてしまったり、誤った先読みをしたりします。
この誤った先読みというのは、ネスケが良くするかもしれない。
例えば、誰かにLINEをしたけどすぐに返事が来ない時に
『嫌われたかもしれない。』などなど…。
「どうせダメに決まっている。」とかも良く言います。
自分自身の不幸な結末しか考えられないという事もあります。
何の意味もない私のぼやきのような発言を、ネスケ自身が嫌だと思う捉え方をしてしまい、いきなり怒り始めたり、落ち込んだりとしている。
この誤った先読みなどをした時の修正はとても難しいと、私は思う。
誤った先読みをした時に、私に話してくれる時はまだいいけれど、言葉にせずに心の中で思っていて、時が経って怒り始めるとどうにもならない。
拡大解釈・過少解釈
良くない事は大きく、良い事は過小評価。
少しでも良くない事が起きると、びっくりするほど悪い結果を考えてしまう。
逆に、良い事が起きた時には「別にたいしたことはない。」と思う。
ネスケの場合で例えると、少しのミスをした時に
「これくらいの事もできないなんて、俺はやっぱりだめだ。」となりますが。
何かを褒められると(私に)
「たまたま出来ただけで、次やった時は出来るか分からない。」などと言います。
謙遜とは違うんですよね。
感情の理由づけ (感情的決めつけ)
ものごとを客観的にではなく、自分の感情を根拠にして決めつけてしまう。
事実として起こっている事ではなく、自分の感情が物事の真実だと思ってしまう事らしいです。
例えるなら
「あの人と話していると嫌な気持ちになる、あの人は俺の事が嫌いなんだ。」みたいな感じらしいです。
ネスケの場合は
「なんかやろうという気にならない、これは俺には向いていないと思う。」など。
~すべき思考
自分が決めたルールで自分も相手も縛ってしまうという事らしいです。
ものごとや出来事に対して、自分の中のルールに自分や他人を当てはめて判断する。
『これは〇〇するべき。』
『これは〇〇であるべきだ。』
という風に考えてしまう。
自分だけならいいのですが、相手がいる時などに相手がそれをしてくれないと、イライラしたり気になったりしてしまう。
ネスケの場合で言うと
・「休みの日に早く起きて散歩をするべきなのに、起きられずに散歩が出来なかった。」と自分自身を許せないという罪悪感などでいっぱいになり、落ち込んでしまいます。
自分で自分にプレッシャーをかけて追い込んでしまうという感じです。
・「店員だったら、こうするべきじゃないのか!」と、クレームを入れようとしているのを、私に止められるという事もありました。
レッテル貼り
一般化のしすぎ極端にすると、レッテル貼りになるみたいです。
自分自身に対しても『自分はダメなやつなんだ。』となるけれど、相手に対しても『この人はこういう人だ。』というレッテルを貼ってしまう。
これは、一方的な見方しかできなくなる状態。
たった1度のミスで『俺はやっぱりポンコツなんだ…。』とか、1度私がミスをしただけで『ネスケ子には任せられない。』などとなります。
誤った自己責任化 (個人化)
自分に関係がないことなのに、自分の責任に結び付けてしまう。
自分が直接その事に関わっていないのに、自分のせいだと考えてしまい自己嫌悪に陥ってしまう事がある。
ネスケの場合で言うと
『両親がうまくいっていないのは、俺が上手く立ち回れなかったせいだ。』とか、『ネスケ子がご飯を食べられないのは、俺が一緒に食べないからだ。』などなど…。
ネスケの責任ではないのに、自分を責めてしまっています。
私の場合で言うと
『ネスケが自分を責めてしまうのは、私の伝え方が良くないからだ。』など。
カサンドラかもしれなかった頃は、特にひどかったです。
ネスケが怒るのも、ネスケが自分を責めるのも、ネスケが落ち込むのも、私のせいだと思っていました。
会社での出来事にネスケが落ち込んでいても、私のせいだと思っていた。
今思うと、無理やりこじつけているかのようにも思えるけど、とにかく私のせいだと思っていました。
認知のゆがみはどうやって生まれる?
認知が偏ってしまった原因を特定する事はできないという事です。
原因を特定する事ができないけれど、認知に偏りがでてしまうのは過去の経験から生まれる。
幼少期の家庭環境や、学校生活などなど。
辛い思いをした経験や、失敗だったり。
自動思考を生み出す「スキーマ」という固定概念が存在するとされているようです。
過去の経験や学んだことから作られた価値観や評価基準を「スキーマ」と呼び、これが自動思考を生み出す原因となるようです。
私が育ってきた環境というのは
「休みの日は、普段やれない事をする。」というものでした。
母の休日は、普段は出来ない家事などをしていた。
そしてそういうものだと教えられてきた。
なので、『休日には休むというより普段できない家事や用事をしなければいけない。』という思いが強く。
何もしないで休んでいると「何かをしなければいけない。」という思いが出てきます。
何もしない事に対して罪悪感すらありました。
これは、体調が悪い時でもそう思っていました。
こういう固定観念によって、認知のゆがみが出ると言われているようです。
他にも過去のトラウマなどから
「自分は何もできない。」
「他人は自分を傷つける。」
「私の事を愛してくれる人は誰もいない。」
などというものを持ちやすく、それらが認知を歪ませる原因とも言われているようです。
そして、こうした自動思考は心が警告を出して傷つくのを防ぐ防衛反応らしいです。
こういった認知を強く持っている方は、人と親密な関係を保てずに生きてしまう事になります。
そして放っておくと、深刻なうつ状態などを起こしてしまうことに。
発達障害と認知のゆがみ
ネスケが通院する病院で、私も家族カウンセリングを受けています。
ネスケもカウンセリングを受けていますが、ネスケと同じ心理士さんにカウンセリングを受けることによって、私達夫婦の生活も大きく変わりました。
そして、そのカウンセリングの中で良く耳にする「認知のゆがみ」。
発達障害の方は特性から「認知のずれ」が生じるようです。
ASDの特性の中には「強いこだわり」がありますが、その強いこだわりから「~すべき」という『すべき思考』があったり、完璧主義な所がある事から『白黒思考』などの思考が出てきます。
相手の様子などを見て察する事は多いかと思いますが、発達障害の特性を持っている方は一部分しか見る事が出来ない。
その部分から「こうなんだ」「〇〇と思っているに違いない。」などと思ってしまいます。
ここも認知の歪みに繋がります。
後は、特性から嫌な思いやトラウマ的な経験などもあったり、自己肯定感が低くなったりと、認知のゆがみへと繋がる事も多いのではないだろうかと私は思っています。
他の事に対して関心が薄いとも言える、発達障害の特性の方は認知が歪みやすい。
客観的に見る事が苦手という部分から、主観的思考が主な思考となり、ありのままの出来事(客観的事実)にまで思考を回すことができない。
自分の価値観や思考などが肥大化して、周りの人と自分の思考にずれがでる。
発達障害あり・なし関係なく、もともとも持っている性格や遺伝子によって、認知が歪みやすい人とそうでない人がいます。
そして発達障害だけでなく、うつの症状にも認知の歪みはあるみたいです。
うつがひどくなると認知の歪みもさらに強く出るようです。
認知の歪みの改善は?
1度は耳にした事がある方も多いかと思います。
『認知行動療法』
認知の歪みの改善方法として、認知行動療法があるようです。
気分が落ち込んでしまうような自動思考を「非適応的な認知」と呼ぶそうです。
ネスケなら「俺はポンコツなんだ。」と、1つでもミスをすると言っています。
根拠のない憶測をしたり、何でも悪い方向へと捉えてしまう。
「非適応的な認知」をする方は、そのような傾向があるようです。
そして、偏りのない捉え方をする認知が「適応的な認知」だそうです。
「非適応的な認知」に気づいて、「適応的な認知」に修正してくことが『認知行動療法』。
性格を変える事も、相手を変える事も難しいけれど、考え方のくせと言われる認知のゆがみは修正できて変われる。らしい。
改善の1番は「気づく事」だと思う。
自分の自動思考に気づくという事。
自動思考の歪みに気づくという事ですが、嫌な事があった時に書き出すという事が良いようです。
実際、ネスケも自分の思っている事などを書きだすようになってから、かなり変わってきました。
ネスケは特性から、自分の事を客観的に見るという事が難しいのですが、書き出すという事と私が日々書いている『アメブロ』を読むことによって、様々な「気づき」があったようです。
特に、自覚がない人というのは「自分の思考が歪んでいるという部分」から気づかないとならない。
でも、誰でも自分自身に『認知の歪み』があると気づく事ってないのでは?と、多少認知の歪みがある私は思ってしまいます。
ただ、同じ出来事が起こった時に「私は辛いと思ったけど、あの人は辛いと思っていない。」というのは自動思考の違いからなので、自分自身が「なぜ私は辛いと思ったのか?」と特定するという事は何となくできそうな気がします。
これは、認知行動療法では「ホットな自動思考」と呼ぶそうです。
ただ思い浮かべただけで、何となく不安を感じたり、落ち着かなくなるというものがホットな自動思考だと私の読んでいる本には書いてありました。
その思考を見つけて解消する事が、改善へと繋がる最初の取り組みの様です。
性格を変える事や、相手を変える事は難しい(相手を変える事は出来ない。)けれど、自分自身は変わる事は出来る。
例えば、私の場合で言うと
「私がネスケを変える事はできないけれど、私自身は変わる事ができる。」
それは、前から分かっていた事ですが、私の気持ち的に
『ネスケが変わらないのに、なんで私が変わらないといけないのよ!』って思っていたんです。
ただ、相手(ネスケ)だけを責めるのではなく、自分を責めるのではなく過ごしたいと思った。
なので、ネスケへの見方などを少しずつ変える事が出来た今は、ネスケへの接し方も変わりました。
その結果、私が変わった事で、ネスケも変わってきた。
それでも、上手くいかない時はあります。
でもそれは、普通の事であって、何もおかしい事ではないとも思っています。
生まれも育ちも違う2人が生活して、ぶつからない事の方がレアだと思っています。
認知行動療法について書き始めると、かなりのページ数が必要だと思うので今回は省略しますが、ネットなどで検索するとかなりヒットすると思います。