ネスケと暮らしていると、頻繁にこの言葉が頭に浮かびます。
『自分の事を棚に上げて』
『ブーメラン旦那』
だいたい私はネスケに
「ねえ、ブーメラン刺さってるよ?」と言っています。
最近では、ネスケ父の話をしている時にネスケが
「これ以上言うと、俺にブーメランが刺さるから言わない。」
と、言います(笑)
ネスケに対して『自分の事を棚に上げて』と、私が感じる所は『自分を客観視できない』という特性から来るものだと思います。
ASDの特性を持っている方には多いのでは?と、思っています。
自分の事を客観視できないというのは、「俺ばっかり」という言動にも繋がると私は思っています。
自分の事を客観視する事が苦手な旦那ネスケとの生活は、当然ですが喧嘩は多くなる。
『目に見えない気持ちのような物が分からない』と、ASDの本などに書いてある。
それは、私も分かっているけど、理解したいけど、『気持ち』をぶつけてしまいます。
発達障害の特性を持つ方は、自分にされた事には敏感とも書いてある本もあります。
それも、自分の事を客観視できないという事から、問題になる事があるかと思います。
『自分がされた事には敏感なのに、同じことを相手にしていても気づかない。』からです。
『自分の事を客観視できない』というのは?
誰でも、『自分の事をすべてにおいて、客観視する事が出来る人は出来ない。』と、私は思っているのですが、さらに『自分の事を客観視する事が苦手』というのが、発達障害の特性を持っている方だと思います。
『自分の事を客観視』という言い方もあれだと思いますが、ある程度自分の言動に対して相手がどう思うかという事を考えて行動したり、言葉を発したりすると思います。
ですが、発達障害の特性を持つ方は『自分の言動によって相手がどう思うか?』という事を想像する事が苦手とされています。
ASD(自閉スペクトラム症)の主な特性として、大きく3つに分かれているようですが。
◎社会性の障害
(人とうまく関われない。関わり方が独特。空気を読んで臨機応変な対応をするのが苦手など)
◎コミュニケーションの障害
(一方的に自分の事ばかり話したり、失礼な事も気にせず口にしてしまう。冗談が通じないなど)
◎社会的想像力の障害
(他人の感情や、経験した事がない事を想像できない。こだわりが強い、興味がない事には関心を示さないなど)
自分の事を客観視できないというのは、社会的想像力の障害という特性が大きく関係しているのかな?と、私は感じていますが。
まあ、特性全部が複雑に絡み合ってなのかもしれません💦
ただ、自分が不快な思いをしたという事を、自分もしているという事に気づかない。
これは夫婦喧嘩や、日常生活、仕事などの人間関係などに困難を感じるところかな。
客観視できないという所を、私目線でネスケの場合として書いてみようと思っているのですが。
自分の事を客観視できないという事から、当事者であろう方自身も誤解してしまう事があります。
『上手くいかないのは、○○のせいだ。』とか『俺ばっかり注意される。』などなど。
上手くいかない原因を周りの人のせい(自分ではなく他に原因があると思う。)にしてしまう事があります。
これは『自分の事を客観視できない』という所と、『認知のゆがみ』からだと思われます。
しかし、どちらかの原因(もしくは両方)があっても、「○○のせいだ。」という事を決めつけてしまう所もあります。
状況を客観的に見て分析する事が苦手な人が多いので、上手くいかない理由を把握できずに誤解してしまったり、自分ではない何かに原因を決めつけてしまう事が多いようです。
いくつか私が思う事を書いていきます。
目に見えるものと、経験した事は分かる
『気持ちのような目に見えないものを想像できない。』という『想像力の障害』。
これは『目に見えるものは分かる』とも思えます。
あとは、自分が経験した事に対しては理解してくれる時が多いです。
先日、この『自分が経験した事に対しては理解してくれる』という事を、改めて感じた出来事がありました。
人がむせて苦しんでいる姿を「なんか面白い(笑)」と笑ってみている旦那ネスケ…。
これって、私がむせると毎回「くすくす(笑)」と笑っているんですよね。
(時には爆笑…。)
私は苦しんでいるのに笑っているネスケに対して、私は毎回ムカついている…。
そして、先日も私は食事中にむせました。
ネスケが『激しくむせる』という経験をした事から、いつもなら笑って見ているネスケなのに『心配してくれた…。』
『共感する事が苦手』という事も良く目にしますが、これも想像力の欠如という特性からきていると思います。
ですが自分が経験した事は、比較的共感してくれる事が多いです。
ネスケを見ていると、『相手がこう思う』というより、『自分がこう思う』が優先されているな~。と、身近で接している私は感じています。
これも、自分が受けた言動というのは、自分自身の事なのでもちろん分かるという事なんですが、自分自身の言動によって、相手がどういう気持ちになるかという事に対しては、想像する事が困難という特性から分からない事が多いんです。
(分からないというか、頭に浮かばないというか何というか)
この部分が私が頻繁に思う、『自分の事を棚に上げて』や『ブーメラン刺さってるよ?』になります。
そして、私の読んだ本には『定点観測者』という言葉が出てきました。
定点観測者とされる方は、相手の立場に立つことが苦手。
この部分が、人の気持ちや状況が分からないということになるようです。
心の移動が出来ずに1つの点からも物事をみる。
自分が周りの人に不快な思いをさせている事は分からないが、自分が不快にされている事が分かる。
この定点観測者は、特性が複合しているとも書いてありました。
例えば、ASDの特性からの『マイルール(こだわりも)』を優先させるけど、その事で相手が困っていたり、不快に思っていたとしても、本人は気づかない。
自分の中だけのルールや、こだわりが『世の中の当たり前の事というか「普通」』とも思うくらいなので、それを破る人がいるとパニックを起こしたり(混乱する)、それが許せないという気持ちになるようです。
ネスケにこの事を聞くと『なんかその通りにやってくれないと、上手く言えないけど気持ちが悪くてイライラしてくる。』と言っていました。
『自分の意見を曲げない(融通が利かない)』とも取れますが、本人の気持ちとしてはこんな感じなのかもしれません。
その上、『良かれと思ているのに、なんで文句を言うんだっ!』という事になるのも、珍しい事ではない。
ネスケの場合で言うなら、『ネスケ子の為にと思ってやったのに、なんで文句を言われるんだ!』となり『理不尽だ!』と、ネスケは怒ります。
そういう時の私は、ネスケが思うのと同じように『理不尽だ!』となっているのですが、私が理不尽と思うことすら、ネスケからすると『理不尽な事』のようです。
物事に対しての見方は?
全体と1部分との関連を把握する事が困難な所がある。
以前何かの記事に書きましたが、「森を見るのではなく、一本の木を見る」という所も関係しているのでは?と思います。
全体と1部分との関係(関連)を把握する事が苦手なので、一点だけをを見てしまう。
そうすると、全体の中(背景・状況の中)で、自分がどの位置に(どのような状態か)いるかが分かりづらいという事の様です。
優先順位が決められないというのは、この特性が関係しているようです。
(※一本の木の見方も、私は『森の中の1本の木』という全体の中の1部分として見ますが、ネスケは1本の木しか見えていない。森全体を見るという事がない。という事です。)
全体の中での自分の状態が分からない事も、自分を客観視できないという事に繋がるのでは?と、私が思っているだけです。
視野が狭いというのは、この全体を見る事が出来ずに一部分だけを見てしまうという事。
我が家の『客観視できないエピソード』
ネスケとの生活の中では、ほぼ毎日のように『客観視できない』という事が起こっているので、描き切れません💦
少しだけイラストを交えて、ネスケの場合として書いてみたいと思います。
自分の事を客観視できないというのは
・自分の状況を把握できない。
・自分の言動に気づかない。
という事になると思いますが
・自分の状況を把握できないから、相手に非があると思ってしまう事もある。
(多々あるかも)
・自分の言動が原因で、相手が怒っていると気づかない事がある。
(だいたい気づかないかも)
自分の事を棚に上げて、という風にしか捉えられない時が多いので、私は時にムッとして喧嘩になる事もあります。
他にも、いつも私がネスケに注意している事を(電気を消す・物を使ったら元に戻すなど)、私がしてしまう時もありますよ。
その時、まるで鬼の首を取ったかのように『お前だってしているじゃないかっ!』と、グチグチ言われる時があるんです。
ネスケが毎日しているとしたら、私は1か月に1回。いや、2か月に1回程度の事です。
たまにしてしまう人と、毎日してしまう人を一緒にするな!とも思いますが、ここは『白黒思考』が出てきます。
注意するなら1回でもしてはいけないかのように言われます。
ネスケの場合で言うならば、ネスケ自身が言われている事は印象に残るので、自分が毎回しているという事よりも「毎回自分は言われている。」という事なんですよね。
『毎回、自分が消し忘れている』ではなく、『毎回、文句を言われている。』なんですよね。
私も、ネスケが消し忘れなければ注意もしないのですが、この『消し忘れている』という事より、『言われている』という事が強く残っているみたいです。
父とのやり取りで気づくことが多い。
最近のネスケは、自分を客観視する術を得ました。
それは…。
ネスケ父と接する事です。
ネスケ父とネスケは、本当に同じ特性を持っていると会う度、会う度に感じます。
そんなネスケ父と、ネスケが接する度に「俺もこうなんだろうな…。」と感じるそうです。
そして、そんな2人のやり取りを離れたところから見ている私は苦笑いです。
ネスケに聞かれた事に対して、私が答えたり、意見を言う時がありますが…。
そんな時、ネスケが素直に聞いてくれる事は少なかったです。
(最近は、聞いてくれる事が増えた。)
とりあえず、『あーだこーだ。』言われます。
聞かれたから答えただけの私はイラッとします。
答え方も考えたら違うのかもしれませんが、やっぱりイラッとすると思う。
「あ、そうか。」でいいじゃないか!と思うのですが…。
そう言っても「でも。」とか「だけど。」とか、止まりません…。
意見などを言われると、ネスケからすると『自分を否定された。』と、捉えてしまいます。(意見=否定)
その対策としては、私が意見を言う前に「今から私が話すことは、ネスケを否定するという事じゃないからね?」と言うようにしています。
忘れる事もありますが、この一言添えるという事を続けてみて思う事は、今現在のネスケは私が一言添える事を忘れても、『否定された。』と思う事が少なくなってきた気がします。
ある日、ネスケ父が我が家に手伝いに来てくれたのですが、その時にネスケが「気をつけてね。」という感じでネスケ父に言っていました。
言われたネスケ父は、どうなったか?というと…。
はい、自分の言動を客観的に見る事ができました。
ネスケ父の言動が、まるっきりネスケでした。
ネスケ父に言った後に、「あっ!これかっ!こう言う事か!」と言っていました(笑)
私は「漫画かよっ!」と突っ込みたくなるほど、オチがありました(笑)
ネスケは、ネスケ父と接する度に自分の言動を客観視する事ができるようです。
それは、ネスケが言うには「良くも悪くも、俺の鏡。」らしいです。
人の事は見る事が出来る
ネスケと出かけている時に、ネスケは何気に周りの人を良く見ています。
隣でネスケを観察していると、挙動不審な人に見える時もあるほどに落ち着きなくキョロキョロとしている時もあります。
人の服装の事を言えるような服装をしていないネスケ。
服に興味がないネスケですが、それも『他人の目から見た自分』を想像する事が出来ないという事が関係しているようです。
他の人の服装はもちろん見る事ができる。
人の服装の事を、あーだこーだ言います。
(私の服装も言われる。)
人の事をあーだこーだ言っているネスケの服装は、人の事を言えるような服装ではありません。
気温に合わせた服装というのも苦手なようなんです。
例えば、冬でも昼間は暖かいけれど、夕方頃から気温がぐっと下がるじゃないですか?
ですがネスケは、昼から夜まで出かけるとしても、薄着のまま外出する事が多いです。
そこは、想像する事が苦手という部分と、先を見越して予定を立てる事が苦手な部分がでているのかな?とも思います。
逆に、最初から暑すぎる服装で出かける事もあります。
服装で言うならば、タンスの引き出しを開けて目についた物から着るので、薄い色のグレーのロンTに、それより少しだけ濃いグレーのパンツを合わせるという事も多いです。
目についた服から着ます。
ヨレヨレでも、穴が開いていても、色がさめていても、服は『着られるか、着られないか』という基準なので気にせずに着ています。
他人から見た時の自分を頑張って気にして欲しいとも思います。
(嫁の目も気にして欲しい。)
たぶん、ネスケの着られないというのは、ボロボロの状態だと私は思っている。
日常のあるある
ADHDの特性も持っているネスケは、使った物を元に戻す、開けたら閉める、点けたら消す、などを気をつけてはいても出来ない事が多いです。
(毎日のあるある)
自分はいつも閉めないのに、私が閉め忘れた時などはめちゃめちゃ言います。
自分の事を棚に上げて、めちゃめちゃ言います。
自分を客観視できない旦那のまとめ
『自分の事を客観視できない』という特性から喧嘩になる事もある。
ネスケが怒っている時の私に対して言っている事は
「え?ネスケに言っている?」と思うくらいに、ネスケが発した瞬間にネスケにブーメランが刺さっているんですよね。
「それってネスケの事だよね?」と言うと、さらに怒らせてしまうんですが💦
私からすると、ネスケのしている事を私がすると怒る。
ネスケがして私が怒ると、ネスケも怒る。
どちらにしても、私が怒られるんですよね。
でも、ネスケは「いつも俺ばっかり責められる。」
うーーん、これは不満になるし、喧嘩にもなる。
ネスケは、発達障害の特性や、特性からの認知のゆがみなどから、誤った受け取り方をしてしまう事が多いです。
大体は、ネガティブに受け取ってしまうのですが、それも自分の事を客観視する事が出来たら解決される事が多いような事なのかもしれません。
そんなネスケが、自分の言動を客観視する方法があります。
私が日々書いているアメブロでの喧嘩記事なのですが、最初の頃は「あれはネスケ子の言い分しか書いていない。」という意見を言っていました。
なので、喧嘩記事を感情のまま私目線で書いた後に、ネスケの言い分を交えて『解説記事』を書くようになってから、自分の言動を見直すようになりました。
それと、ネスケと同じ特性を持っているというネスケ父とのやり取りでも、自分の事を客観視する事が出来るようになりました。
ネスケ父とのやり取りは、私から見ていても言い合いになる事が多いです。
ネスケ父の方が色々な意味で拗らせているので、余計にネスケが感じる事が出来るようです。
一番大きいのは、ネスケが自分自身が感じた事や、日々の中記憶に残った出来事を書き留めるようになった事ですね。
自分自身の事を書き出すようになって、自分の言動を見直すきっかけとなったようです。
発達障害の本に『日記を書く』というアドバイスが載っているのを多く見ます。
私も本を読んだ時に、ネスケに「書いてみたら?」なんて言っていましたが、書くことはなかったです(笑)
ネスケが自分自身の事を書き出すようになったのは、「カウンセリングに行く時に聞きたい事や相談したい事をその場になると忘れてしまうから書いておく。」と、ネスケ自身が書き始めました。
今でも、気が付いた事を書くようにしているみたいなのです。
書きだした事を時間がある時や、気になった時に読み返す。
これが、ネスケが自分の事を間接的にでも客観視する事ができる方法となっています。
そこから『気づき』があり、以前のネスケとは変わってきた理由です。
私がいくら言っても行動する事はありませんでした。
良く目にする『相手を変える事はできないけれど、自分を変える事は出来る。』というものを、改めて実感する事が出来ました。
私自身もネスケに対して、意見や注意などしてきました。
ですが、いくら「やめて欲しい。」、「変わって欲しい。」と言っても変わる事はなかった。
その生活に疲れていた私は、ネスケへの対応を変えました。
私がネスケに対してイラッとするのも、「私がして欲しい事をしてくれない。」、「分かって欲しい事を分かってくれない。」という事への苛立ちです。
私がその期待というか、要望なのかな?
ネスケに押し付ける事をしなくなり、良い意味での諦めをして、私が言わなければネスケが困るだけ。と、割り切って対応するようになったら、ネスケが変わってきた。
偶然なのか分かりませんが、それもネスケが何かに気づいたり、変わってきたキッカケになったのでは?と、今は思っています。
ネスケのルールを押し付けられることが嫌だけど、私もして欲しい事などをネスケに押し付けていたのかもしれないと、思ったわけです。
ネスケの普通が私の普通ではないように、私の普通もネスケの普通ではないという事を、本当の意味で理解したのかもしれません。
と良い事を書いている感じですが、ムカつく時はムカつくという事は変わりません。
本当にムカつくので。
このムカつきは、ネスケが発達障害でなかったら感じないムカつきだと思いますが、発達障害のネスケではなく、それがネスケだと思うようになりました。
私が感じた事や、思っている事、調べた事などが、誰かの参考になればと思います。